【アドラー×教育】自己否定でも自己肯定でもない、究極の自己の捉え方

【アドラー×教育】自己否定でも自己肯定でもない、究極の自己の捉え方

 

今回は【自己】の捉え方というテーマで話していきます。世間で言われる「自己〇〇」、1番よく聞くのは自己肯定ではないでしょうか。

しかし、今回は自己肯定ではなく、究極の自己の捉え方として自己受容という考え方について解説していきます。

考え方の元になっているのは、このブログお馴染みのアドラー心理学です。

今回の記事を通して、正しい自己の捉え方を理解し、それを教室で子ども達に伝えることができるようになるでしょう。

それでは、早速いってみましょう!

   

自己否定と自己肯定は危険!?

自己否定がダメな理由

 初めに自己受容を理解してもらうために、土台となる自己否定と自己肯定が良くない理由について解説していきます。

まず「自分はダメな人間なんだ」「自分は能力が低い」といった自身を過剰にマイナスに考える自己否定ですが、自己否定は良くないということに異論を唱える人は少数なのではないでしょうか。

そもそも人間は感情によって行動を決めています。

自分はダメだ、能力が低い、馬鹿なんだと他ならぬ自分が思っていれば、その結果として起こされる行動もそういったマイナスな感情に付随するものになることでしょう。

初めて100マス計算を行う時、初めて縄跳びの二重跳びを指導する時にやる前から「えぇーそんなの絶対無理だよー。」「うわー俺には出来ないからやだな。」と言っている子がいたら警鐘を鳴らしましょう。

学校や教育は出来なかったものを練習や学習によって出来るようにしていくということが根本にあります。

やったことないこと、出来ないこと、難しそうなことを前にして、最初から諦めモードで取り組んでいたら本来得られるはずの結果が得られないのは当然です。

自己肯定がダメな理由

 では「自分はできる人間なんだ」「自分の能力は高い」と考える自己肯定についてはどうでしょうか。

この考え方は自己否定に比べ、かなり前向きな考え方で一見すると正しい自己の捉え方のように感じます。

しかし、自己肯定という考え方の危険性を嫌われる勇気では、このように書かれていました。

テストで60点を取った生徒がいるとする、自己否定とは「60点しか取れない自分なんてダメな人間なんだ」と思うことであり、自己肯定とは「本当の自分は60点以上の実力がある」と考えることである。

自己肯定とは、突き詰めていくと自分には能力があるんだから大丈夫なはず、今、失敗が続いているのは本来の自分の力を発揮できていなからだ、と過信や慢心、現実逃避に繋がっていく危険な考え方なのです。

 

自己受容とは

 さぁ、ここまで自己否定、自己肯定が危険な考え方だというお話をしてきました。

ここからが本記事の本題である【自己受容】という考え方について解説していきます。

まず結論として、私の考える自己受容とは「現在のありのままの自分を素直に受け入れる」ということです。

先程のテストの点数を例に自己受容を解説するならば、「60点の点数をそのまま、現在の実力だと考える」ということになります。

自分の結果に対して卑下するわけでも過信するわけでもなく、ただの一つの結果として受け入れるということです。

自分のありのままを受け入れる、この当たり前のことのようにして、意外と多くの人々が出来ていない事を習得するには、どのような考え方の土台が必要なのでしょうか。

ここでは、自己受容を習得するための2つの考え方を紹介していきます。

他者と比べない

 1つ目は「他者と比べない」です。

世の中には実に多くの人がいます。

教員という限られた見方をしても、自分よりも授業が達者な人、子どもの心を掴むのが上手い人、保護者や管理職から好感をもたれている人、常に怒ってばかりで心に余裕がなさそうに見える人、忘れ物や抜けが多くミスが目立ってしまう人など、様々な人が働いているのが今の現状です。

しかも教員はサラリーマンなどと比べ部長や課長など、明確な階級差が管理職など以外では、あまり存在せず担任という枠内では、初任も20年来のベテランも同列でスタートする風潮を感じます。

そんな中で他者と比べていたら、どうなるでしょうか。

自分が頑張ったとしても、上には上がいる状態では、いつまでたっても自分に対して自信をもつことなど出来ず、怒っているばかりの先生やミスばかりの先生を見て、自分は大丈夫だと安心したとしても、今の自分の能力は何も変化しません。

とはいっても人間は、社会の中で嫌が応にも人と接しながら生きています。

教員という仕事では、学年や同じ分掌の人と関わり合うのは必須とも言える中で、周りの人の優れているところや、劣っているところを感じた時に、全く反応しないというのも無理な話です。

ですから優れている、劣っていると感じた時は「この人も頑張っているんだな。」と考えるようにするのはどうでしょうか。

今まで頑張ってきたから、この人はこんなに授業が上手いんだな。

ミスをすることはあっても、この人も自分なりに考えて頑張っているんだろうな。

このように考え方をシフトすることで、他者を競争相手ではなく、順位を競わないマラソンの伴走者のように捉えることが可能になってくるでしょう。

 

機能価値と存在価値を分けて考える。

2つ目は機能価値と存在価値を分けて考える。です。

機能価値とは、○○が出来る、□□が上手いなどのスキルや能力に当たる物で、例として、資料を素早く作ることができる、人を惹きつけるプレゼンが上手いなどがあげられます。

一方で存在価値とは、自分の人間としての価値、ありのままの自分の価値という風に言い換えることができるでしょう。

この機能価値と存在価値は別の物で一緒くたに考えてはいけません。

例としてあげるなら、授業を上手くすることが出来ないから自分はダメな人間なんだ、保護者からクレームはくるわ、子どもたちは全然言うことを聞いてくれないから私は劣った存在なんだ、と考えることです。

例え、授業が上手くなかろうと、保護者からクレームを言われようと、ミスをして周りに迷惑をかけようと、自分の存在価値は全くもって揺るがず、ただただそこに存在しているのだと強く決心するようにしましょう。

自分の存在価値という大きな土台の上にピラミッドのように機能価値を積み上げていくイメージで、上の方の機能価値が多少揺らいだり崩れたりしたとしても、肝心要の存在価値はいつでも揺るがなくあり続けるのです。

自分に出来ることも出来ないことも全て受け入れた上で自分自身のことを認めてあげる勇気こそが「自己受容」なのです。

 

終わりに

 【アドラー×教育】自己否定でも自己肯定でもない、究極の自己の捉え方、いかがだったでしょうか。

私個人としては、教員のみなさまにも、そしてみなさまの教室の子ども達にも自己受容というありのままの自分を受け入れる勇気をもって欲しいと願うばかりです。

そして、その根底に流れるのは、アドラーの教育の目指すところが人間としての自立であるというところに根ざしています。

自立とは、読んで字の如く、自分の足で地面にしっかり立つことであり、そのためには自分を否定して膝を曲げるのでもなく、肯定して背伸びをするのでもなく、自分を受容し、2本の足で堂々と地面を踏みしめて立つことが必要なのです。

 

この記事を読んで、少しでも共感してくださったり、私と同じようにアドラー心理学を教育に取り入れようとしたりしている方の参考になれば幸いです。

 

   

それでは今後もスマートな教員を目指していきましょう!

では、また。次の記事で  Thank you

 

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